読んだのは以下の本。
・『たったひとつの冴えたやりかた(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア/ハヤカワ文庫SF)』
・『華氏451度(レイ・ブラッドベリ/ハヤカワ文庫SF)』
・『幼年期の終わり(アーサー・C・クラーク/光文社古典新訳文庫)』
・『モモ(ミヒャエル・エンデ/岩波少年文庫)』
をそれぞれ読了。
どれも面白かったー。
上3つは突発的SF読みたい症候群に罹患したので
未読の有名どころからピックアップ。
いわゆる古典SFにしばらく触れていなかったので
飛び交う独自の用語にしばしくらくらと目眩を感じつつも
気がつけば時間を超えてどっぷり作品の世界へダイブイン。
それぞれの作家が繰り広げる未来の世界の精妙さに
静かだが確固たる情熱の火花を感じてぞくぞくとする。
一転『モモ』は、児童向け文学として推薦されるように
わかりやすい平易な文章でもって書かれているが、
その内包するテーマはとても広く深く、はてしない。
読み手によっていろんな顔をのぞかせる実に豊潤な作品で、
また時間をおいて読み返したいと思わされました。
どの作品も非常に満足のいく出来で、
長い年月を経て今なお人気が高いのも頷けます。
前者と後者ではかたやSF、かたやファンタジー(これも広義にはSFだが)と舞台こそ違うものの、
徹底的に普遍的な「人間」を探求している点が共通しており、
そこがやはり人気の原点なのだろうと思います。
いついかなる場所、時代であろうとも、
そこに生きる人間(ここでは生物学的な「ヒト」以外も含む)の営みは大きく変わらない。
それぞれの舞台に生きる人間たちが
歓び、憤り、苦悩し、哀しみ、そしてそれでもなお、自分の道を選び、歩んでいく。
そこには紛れもない、尊敬すべき彼らの人生があります。
話が逸れますが、ときおり、
「彼らは架空の人物に過ぎない」
とか、あるいは、
「全ては空想の産物だ」
と揶揄する人がいます。
彼らは言います。
「それは何の役に立つの?」と。
空想の産物であることは事実ですし、それを否定するつもりは毛頭ありません。
どれだけ読者が没頭しようと、彼らの苦悩を、痛みを、世界の外側にいる自分が
真に理解することはありえません。それは紛れもない真実です。
ですが、現実世界でもそれは同じことではないでしょうか。
我々は、他人はもとより家族の、友人の、恋人の、
どれほど近しい人の痛みも苦悩も歓びも、それを真に理解することは叶いません。
その傷の痛みは、それを負った者にしか分かり得ない。
せいぜい自分の経験と照らし合わせて分かったと思い込むくらいが関の山です。
「数学が何の役に立つんです?」
(中略)
「鶯(うぐいす)の美しい声に、何の意味があろう?
森へ行ってきいてみるがよい。何のためにお前たちは鳴くのかと。
何の役に立つのか、とな。
すべての美は、それを尋ねる者には、役に立たぬものだ。
では、哲学者は何の役に立った?
存在の複雑さをベクトルのようなものに置き換えて何になる?
心理学者は何の役に立ったかな?
解放と処方を入れ替えて、絶叫と抑制の多角形の頂点を一つ移動したに
過ぎないではないか。
物理学者は、世界中の金を集め、統合というただ一つのマジックさえ
まだ完成させていない。
宗教家、それに政治家はどうだ?
戦争が終わらないように敗者を援助する、いやそう言って
握手だけの約束をする。
誰が何の役に立った? 一人でもよい、役に立った者を思い浮かべてみたまえ。
よいか……、少なくとも数学者だけは、自分たちが役に立つなどとは
決して言わなかった。
何故なら、それが我々の唯一の真理であり、名誉なのだ」
◆『笑わない数学者(森博嗣/講談社文庫)』77p
上はデェタが好きな一文です。前にも引用したかも。
シニカルを気取るつもりもないし、これもまたこの後さらに
ベクトルをひっくり返されるために用意されたひとつの前提に過ぎないけれど、
世間一般で言うところの「役に立つこと」ばかりを急ぎ追い求める風潮のさなかに
ふと思い出すと、肩の重荷がとれることもあるかもしれません。
役に立つことは一つの成果ではあります。
でも、それと同じくらいに、役に立たないこともまた大事な一つの成果なのです。
失敗は成功のなんちゃら、という意味ではなく、
”役に立たないことに没頭してもよい自由”こそが、「役に立つこと」の最大の成果であり、
同時に「役に立つこと」の存在理由なのです。
往々にして「役に立たないこと」から「役に立つこと」が生まれるのも面白いところですが。
役に立たなくったっていいじゃない、ねえ。