落語というものにこれまでほとんど触れる機会がなかったので
立川談志という人については「有名な落語家」という程度にしか知らなかったんですが、
この本を読んで多少なりともどういう人なのかが垣間見えたような気がします。
なんというか、破天荒がそのまま人の形をしているというか、
人生がまるごと落語そのものというか。そんな感じ。
本の内容としては、氏の半生をつれづれ語ってもらうという口語体の形式で綴られており、
当然ながら落語の話が中心なんですが、この”落語”というものが
デェタがそれまで漠然と思い描いていた落語とはまったく違っていて、まずはそこが目から鱗でした。
恥ずかしながらいまだに寄席と落語の違いすらよくわかってないデェタなんですが、
この本を読むまで落語というものはショートショート的というか小咄的というか、
ちょっと面白い話や風刺的な話なんかを手振り身振りを交えて面白おかしく話す、という
程度の認識しかありませんでした。
あとは機転を利かせてちょっと上手い言い回しをしたりとか。いわゆる笑点的な感じ。
あまりにも知らなすぎるとつっこまれれば苦笑いをするしかないですが、
実際に落語に触れたことのない人の認識というのはだいたいこんな感じでは、という気もします。
ところがどっこい、本を読んでるといきなりフロイトや表現規制の話なんかが飛び出してきたりして。
自分の中に漫然とあった、ちんまりとした”落語”のイメージは早々に崩壊し、
その広さと深さ、”落語”が表現しようとする領域の「垣根のなさ」にぐいぐいと興味を惹かれていきます。
何か世の中の常識に反すること、人間として恥ずかしいことを言ったらダメだと
抑えつける社会になってるでしょ?
ドロドロした人間の非常識な欲望を口にもできない社会だから無理な歪(ゆがみ)が生じて
グロテスクな事件が続発するんじゃないですか。
◆『人生、成り行き ―談志一代記―(立川談志、吉川潮/新潮社)』49p
(拉致家族問題の件で)
勿論、娘さんを理不尽にもよその国家にさらわれた親御さんの気持ちはいかばかりかと思います。
けれどそれと、
「あの両親はいいな。生きがいを与えられて、テレビに一杯でて有名になれて、
アメリカの大統領にも会えて… なんだあの野郎、拉致太りじゃねぇか」という、
人間として一番最低の声を圧し殺すのは別問題です。
こういう非常識な発言が聞けるのが、昔は寄席だったんです。テレビじゃ無理でしょ。
そうするとこういう人間の感情の吹き出し口がなくなっちゃう。
◆同50p
フロイトの謂う「エス」というのか、人間は意識の下に
まとまり切れないドロドロしたものを抱えています。
まとまっている最大公約数の部分だけ出してきて「常識」と呼んでいます。
その常識に収まらない部分はみな、適当に発散してゴマカシて生きてきたわけですね。
戦後の食糧難の時代だって、庶民はちゃんと「天皇陛下? 朕(ちん)はたらふく食ってるぞ」
みたいなことを言ってガス抜きをしていた。
そういうガス抜きが禁じられた世の中になったから、グロテスクな犯罪が起きて、
それを報じるマスコミを見て、みんな納得したり満足したり、気持ちを鎮めたり
しているんじゃないですか。
◆同50p
非実在青少年の話題等で、表現についての議論が紛糾している昨今、ある意味とても
タイムリーな内容ですね。
デェタは芸能や時事関係の話題を追いかける趣味はほとんどないんですが、
3つ目の言を読んで、どうして世の中の人々がまるで自分とかけはなれた人達の話題を
(それもわりと悲惨寄りな内容を)好き好んで追いかけるのかがほんの少しだけわかった気がします。
修行や稽古などは厳しいといえど、正直なところ落語というものは、
誤解を恐れずに言えばもっとお気楽なエンターテインメントだと不見識にも思っていたのですが、
その後もつらつらと読み進めているうちに、”落語”というものが自分の予想を遥かに超えて、
もっと人間の根深い、奥深いところから端を発している、もっと言えば
ある種の哲学を内包しているということがわかってきました。
落語が今日まで多くのファンに支持されてきた理由は多分このあたりにあるんでしょう。
本の中ごろでは、氏が落語を志した入門期から修業時代、結婚、政治家時代などの話が続きます。
奥さんが独特の世界観を持った人で面白い。
また、大の手塚治虫ファンというのはちょっと驚きでした。
手塚先生が幼少の頃、授業中に漫画を描いているときに優しく接してくれた先生の話と、
氏が同様に授業中落語の本を読んでいてこっぴどく叱られた話の対比が愉快。
教育ってのはホント難しいものだと思います。
やがて本の後半あたりから、
”落語”そのものと、それを表現するための”芸”、そして、
それを演じるところの”人間”の深淵について話が推移していきます。
大変僭越に言うと、ヒトラーが「我が闘争」で、
「ドイツは余にとって小さすぎる」と言ったようにね、
落語はおれにとって小さすぎると畏れ多くもそう感じたことはありました。
(~中略~)
そう感じたってことはね、まだ落語のよさ、落語の大きさに気付いていない自分が
至らなかったってことです。
◆同155p
人間という不完全な生物が生まれて、知恵を持っていたから火をおこし、
雨風を防いで、絶滅せずにきた。
そのうちに好奇心がめばえ、いい好奇心を文明と呼び、悪い好奇心を犯罪と呼んだ。
いいも悪いもそれが人間の業じゃねぇか、しょうがねぇじゃないか、と
肯定してくれる非常識な空間が悪所と言われる寄席であった。
◆同185p
落語はね、さっきも言った言葉だけれど、”みんな嘘だ”ってことを知ってやがんのよ。
ルノアールが何億円しようが、それが何だってわかってる。
だからこそ「猫の皿」ができるんですよ。
あれ、ルノアールに帰属している側からはできない。
そんな芸術作品で猫に餌を食わせるなんてね。自分たちの帰属に対する侮辱でしょう。
でも、落語は平気で食わせるんだよ。猫を三両で売るためにね。
◆同186p
人間の曖昧さと不完全さへの冷徹なまでの俯瞰、そしてそれを
滑稽めかして語るところの”落語”というものそれ自体が
再帰的に「滑稽なもの」であらざるを得ないという、ある種究極のニヒリズム。
これはもうどう考えたって哲学の領域だと思います。
余談ですが3つ目の言は、
雑記100208で引用した
「数学者だけは~」のくだりとどこか類似する意志を感じますね。
ちなみに「猫の皿」はググると筋が出てきますのでそちらを参照のこと。
その後も引き続き”芸”の話題が続きます。
下手(へた)という言葉の意味するところついて。
(聞き手)
──師匠はよく高座で「こんなに下手に演(や)る巧さ」と仰いますね。
(談志)
あえて不完全に演ってるって言うかね。細かく言うと、巧さを基準にした〈下手〉を
演ってるのであって、野球の解説をするとして、
「三対二、勝負はこれからです。ここで一発出ると逆転です。楽しみですねえ」
なんて下らないコメントは言えない。
今のテレビはそんな芸人ばかりでしょう? ああいうのとあたしの〈下手〉は違う。
◆同191p
〈下手〉と一口にいっても、ただヘタなのと、あえてヘタに演じるのとでは天と地ほどの差がある。
「ただ上手にやる」だけでは、”妙味”──本書でよくの使われるところ〈イリュージョン〉が
引き出せないと氏は言います。
技術は伝えられるかもしれません。あたしの落語の了見だって伝えられるかもしれません。
(~中略~)
後は、今日言ってきた〈イリュージョン〉という領域、つまり人間の会話や行為や
心理の不完全さをどう表現するか。
これを表現するには、技芸もさることながら演じる側の人間の広さが問われるんです。
これを表現するには完全さの美学では足りないんです。
〈不完全さを出す〉という技芸が必要になるんです。
そこまでできる人間の広さや視点や〈ぶれ〉が持てるかですよ。
◆同205p
クイズ番組で、質問していって、箱の中身を当てるっていうのがあるでしょ?
「生き物ですか?」「いいえ」
「食べられますか?」「はい」
みたいな。
志ん生師匠が出演して、志ん生なりに作っているのかもしれませんが、いきなり
「龍のヒゲですか」「いいえ」
「燕の卵ですか」
絶対に当たらない。この凄さ。
志ん生師匠は〈イリュージョン〉を意識していなかったでしょうが、あの志ん生の
不完全さ、いい加減さ、でたらめさの奥に落語はあるんです。
◆同205p
その芸が成し得るところの”完全さ”に加えて、”不完全さ”までをもコントロールする。
口でいうのは簡単ですが、それを”芸”として如何にか表現するとなると、
これはもう果てしないどころの騒ぎじゃありません。
果たしてそれは人間の掌握しうる領域なのかとすら思います。
常識的に考えて、これはもうほとんど人外のなせる業(わざ)じゃないでしょうか。
凄まじいまでの追求度合いです。
しかしながら、この話は絵の方面にも通じる話だったりするんですよね。
おそらく音楽や彫刻、その他の芸術や武芸と呼ばれるもの全般に通じる概念ではないでしょうか。
一見完全に見えるものからは、前述するところの「妙味」、言い換えればある種の「におい」が
感じられれないことがままあります。
一見不完全な”不安定さ”にこそ、ぞくぞくと心を震わせる妙味、イリュージョンが漂うというのは
よくある話です。
感覚に導かれてつくられた作品にそういった妙味が漂うことが多いように思いますが、
やはり感覚というのはどうしても水物なので安定しません(当然ですが)。
しかし氏はそれを自らの意志でコントロールしてこそだと言う。
途方もない遠路であることは間違いありません。
さらに言えば、”完全さ”の領域でさえ並大抵の人間には到達し得ないだろうに、そこに
不完全さを盛り込むことは、自らが築きあげてきた土台を破壊するのと同義です。
しかしこれについて、氏はいささかもためらいません。
(聞き手)
〈イリュージョン〉を追求する中で調子の良さなんかを含む、
いわゆる〈本寸法の巧さ〉を捨てて落語と格闘していくことになります。
上手い落語家であった談志師匠がその〈巧さ〉を捨てることに
躊躇とか決意はあったんでしょうか?
(談志)
ない。だって、いつでも巧くできるから。
◆同192p
この、ともすれば傲慢とさえ捉えかねられないほどに小気味良い返答。
それ返答の裏に、どれほどの年月と執念が注ぎ込まれてきたのかが偲ばれます。
「守破離(修破離)」、あるいは「型破り」という言葉がありますが、
どちらも「守」あるいは「型」という、基礎となる土台があってこその発展型。
その土台が磐石であるという自信がこの返答なのでしょう。
きっと〈不完全さ〉の技芸というのはこれら「離」あるいは「破り」に通じるのではないかと思います。
本書の最後の方では、お弟子さんである立川志の輔を交えての談話。
さきほど〈不完全さ〉のコントロールは人外の業ではという話を書きましたが、
まさにその人外へと踏み出す道、すなわち「狂う」ことについて話がなされます。
〈狂う〉というのは具体的にいうと、
落語ファンや熱心なオレのおっかけでも付いてこられない世界に入っちゃう。
非常識やさらにその奥に突っこんでいくことになる。
◆同214p
”芸”の高みへ達しようとする執念。
人生の全てを落語に捧げるかのような、文字通り「狂おしい」までの探究心。
しかし、氏は「落語に人生をまかせる」という無責任な道を善しとしませんでした。
(志の輔)
師匠を見てきて凄いなと思うのは、高座で言ってることと、高座以外、つまり
プライベートの時に仰ることや行動に違いがない。ブレないんです。
これが素敵だし、凄いことなんだと思うんです。
師匠は、高座と私生活の一致、人生と落語の一致ということをずっと仰ってきた。
「一致できない芸人はニセモノだ」と。
◆同223p
高座で嘘はいけないよ。
よく若い頃から言ってたんだけど、
「芸人は高座で死ねれば本望だ」って偽善的な言葉がありますわな。
冗談言うな、誰がこんな小汚ねえところで死にたいもんか。死なれた方も迷惑だ。
寄席は休まなきゃなんねえし、死骸を片付ける前座の身にもなってみろ──
そういうことですヨ。
◆同224p
このふたつの言には、もしかしたら一見矛盾を感じる部分もあるかもしれません。
しかし、人生と落語が互いにイコールになっているからこそのふたつめの言なのでしょう。
「人生を落語に懸ける」あるいは「人生を落語に預ける」というような、
一見格好良さげだがその実、無責任な薄っぺらい、放り投げるような覚悟では、
きっとこのセリフは出てこないと思います。
人生と落語は氏にとってイコールであり、決して一方的に落語に従属しているわけではない。
その身を落語に預けながらも、また、その身で”落語”を受け止める覚悟。
一心同体の境地。
それが氏の落語に対する自分自身の在り方であり、氏がたどり着いた生き方なのだと思います。
というわけで、畑は違えど同じく芸を志すデェタとしては、とても興味深い本でした。
立川談春の
『赤めだか』という本でも談志が語られているということで
こちらも今度読む予定。今から楽しみです。
▼
『15×24』もようやく読めました。
こちらも良い出来で満足。友人のとむねこと居酒屋で思う存分内容を語り合って満喫しました( ゜∀゜)=3ムッハー
これを気に蓬莱学園シリーズ新装版で復刊しねぇかなーとか話してみたり。
蓬莱学園の衒学的文体は中毒性が高すぎます。
新作の
『さよなら、ジンジャー・エンジェル』も早めに手をつけたい。