氏は助教授の肩書きをお持ちで、某大学工学部の建築学科の教官でもあります。
一風変わった点として、学生を採点する際に一切のテストを行わず(希望があればする)、
学生から質問をさせ、その内容によって評価するというスタイルで授業を行われています。
本書はそれら3万件を越える質問回答集の中から、一般の人が読んでも
面白い(かもしれない)という質問を抜粋した形式になっており、
建築に関する質問から、人生相談、大学について、科学一般について、森博嗣本人についてと、
幅広い方面への質疑応答がなされています。
集められた質問およびその回答は、再度次の授業で学生達に配布されるようで、
回答そのものはごく簡潔に、というかむしろ突っ慳貪さの方が目立つような
内容ばかりですが(意図してそのようにされている)、その回答の内容は実にユニークで
なかなかに見ごたえがあります。
その内容もそうですが、デェタはこの本の中でまえがき部分がとくに好きだったり。
なんとまえがきだけで19Pもあったりします。
新書にしてはかなり多いページ数ですが、氏が20年近くもの間大学で教鞭を執られた中で
「教育とはなにか」ということについて考えられたことの一端が、この中で語られています。
ちょっと長くなりますが、今回はこのまえがきの中からいくつか
引用しつつ、紹介をさせていただこうかと思います。
以下、引用文内のインデント、改行位置や機種依存文字などは適宜デェタが改変/調整しています。
勉強とはインプットなのか
大学の教官として授業を行うようになって既に二十年近くになる。最初の頃はとにかく勉強した。人に教えるためには自分の知識に自信を持たなければならない。計算方法にも判断にも、慣れていなければならない。言葉を知っているだけでは不足で、その実質を知っている必要があるからだ。学生よりもちょっと知っているくらいでは、どきどきしてしまうだろう。
学生のときだって、受験のときだって、こんなに勉強した経験はない。給料をもらって「これは仕事だ」と思うだけで、こんなにも真面目に勉強できるものか、と自分でも感心したくらいだった。
しかし、こんなに勉強したら教師は学生よりもどんどん賢くなってしまうではないか。これでは、学生はいつまでたっても先生に追いつけない道理になる。
そうか、それで良いのか。いずれにしても、自分ひとりが心配しても仕方が無いことだろう。実のところ本心からそんな心配はしていないのだが、それくらい、ものを教えることほど勉強になることはない、とう点を強調しておきたい。たとえば、お兄さんやお姉さんが、弟や妹にものを教える立場にあって、そうすることで知識が身についてしまう、といった事例もある。塾の先生や家庭教師のバイトをしたことがある人ならば、このニュアンスはわかるだろう。
よくよく考えてみると、これは不思議な現象といえる。勉強は基本的にインプットである。自分の外側にあるものを吸収する、外の情報を自分の頭脳の中に格納する行為だ。しかし、発表会やゼミなども含め、他人に物事を説明する行為が伴なうとき、個人の頭の中で情報がより整理されるのだろう。確実に理解度は深まる。まるで、シチューが煮詰まっていくように密度が高くなる。いろいろな発表会や協議会が存在することから見ても、学問だけではなく、多くの分野で同じ現象が観察されているものと予想できる。
◆『臨機応答・変問自在(森博嗣/集英社文庫)』7p-
教えられることから、学ぶことへ
とにかく楽しいのはインプットなのである、などといっても、なかなか信じてもらえない。自分も子供のときには、どうしようもなく勉強が嫌いな人間だった。中学に上がると定期試験があるので、しかたなく一夜漬けで知識を詰め込んだけれど、まさに拷問に近い苦痛の時間だった。食べたくないものを無理矢理食べさせられるような不快感。おそらくこれが普通だと思う。「勉強が楽しい」なんて口にする子供がいたら、気持ち悪いだろう。それは危険でさえある。
それなのに、どういうわけか大人になると勉強が楽しい。文化教室だって大にぎわいだ。
何が違うのか……。
小学校、中学校、高校までに学習することの大半は、勉強のしかた、つまり道具の使い方なのである。文字を読めるようになり、記号の意味などを習う。意味を理解する訓練を積み重ね、それを表現する方法を習得する。したがって、大学生になれば、ようやくこれらを利用して自分の力で学習が可能になる。道具を使って好きなものを作る段階になるのだ。だから、大学生ともなれば、(理想をいえばではあるが)大勢が一所に集まって授業を行う必要などなく、一人で好きなときに本を読み、調べ、自分のペースで学べば良い。同じレベルの他人との議論も大学なら可能である。教室の授業よりも、その方がはるかに効率が良い。
したがって、大学の教師に残された役目とは、学生の質問に答えることだけである。
高校までの教育では、問題が提示され、それに応える技術が伝授される。なるべく正確に、そして迅速に、与えられた問題を解決する能力、それが社会人として期待されている基本的な能力の一つであり、これが学校で養われる。労働と同様に、確かに社会においても非常に重要な技能であって、多くの人間が日夜数々の問題に取り組み、これを解決することで賃金を得ている。社会はそれで成り立っているかに観える。しかし、それがすべてではない。
その問題を作っているのは誰だろう?
問題を解くことに没頭するあまり、人々は自ら問いかけることを忘れがちである。特に、素直な子供ほどこうなる可能性があるだろう。問題を与えられ、それを正しく解くことだけに満足し、「正解だ」「一番だ」と誉められて喜びを感じてしまうケースも多い。ゲームなど多くがその典型ともいえる。それが間違っているという意味ではない。その問題を作ったのは誰なのか、その問題を自分たちに提示している仕組みは何か、という客観を持つことが重要なのであって、そこに一段高い視点が存在する。つまり、問題を解くまえに、その問題はなぜ生まれたのかそれを解くことの意味は何なのか、問題自体が間違っている可能性はないのか、という問いかけが大切なのだ。
◆同10p-
重要なのは答えることではない、問うことである
グループでリーダシップを発揮するのがエリート(筆者はこの言葉を悪い意味には決して使わない)である。彼らの仕事のほとんどは、常に問題を発見することにある。問題を解決してくれるスタッフは大勢いるからだ。ある意味で、問題を解くことは労働であり、ノウハウが蓄積された場合には大部分が機械によって解決できる対象となるだろう。グループのトップに立つ人間は、将来を眺め、そして自分たちを観て、今何をすれば良いのか、今後どのような問題が発生するのか、を予測する能力が問われる。問題を明確にすることが彼らの仕事なのである。
勿論、問題を作る(見つける)行為は、問題を解決する行為に比べて格段に難しい。それは、数学の問題を一問作成すれば理解できるだろう。
人は、どう答えるかではなく、何を問うかで評価される。
例えば、就職の面接で、「何か質問はありませんか?」と面接員に尋ねられたとき、的確な質問ができるかどうか、そこで評価される。準備された回答を暗記して、それを正しく再生する能力ばかりが期待されているのではない。会話の中で、議論の中で、何が不足しているのかを常に意識し、それを的確に把握して質問をする能力が重要であり、つまり問題を考える行為に集約される。
したがって、本当に人の能力を観たいときには、何を答えるかではなく、何を問うか、を観るべきであって、現にそうした評価がなされている場合が多い。ばりばりと仕事ができる、言われたことはつつがなく片付ける、という有能な人間は多い、しかし、それだけでは人の上には立てない。そうした解決のノウハウを積み重ねるうちに、問題を見出す力が生まれるともいえるが、まずは意識してものを問う姿勢が重要なファクタとなるだろう。
◆同12p-
教育が包含するジレンマ
そういったわけで、授業では質問をさせ、その質問の内容で学生を評価しよう、と考えた。問うことを義務づけることは幼稚なやり方ではあるけれど、訓練とはそもそも幼稚なものから始まるものだ。幼稚なことを繰り返し、経験を積み重ねるうちに、人は自然にノウハウを身につける、と期待したい。
また、最初から「何か質問してやろう」という意気込みで講義を聴くことが、少なからず効果のあることだとわかった。ここに、単なる受身の授業なのか、積極的に参加する授業なのか、の違いがあるともいえる。ただし、これは個人の積極性によるものであって、授業のシステムによる改革だと考えるのは思い上がりであろう。授業のやり方、教え方の影響など、実に取るに足らないものでしかない、と教育者はまず認識すべきだと思う。
結局のところ、教育とは、受け手に「学んでやろう」「吸収してやろう」といった積極性が存在しない限り、ほとんど無駄だと断言して良い。教育そのものが成立しない、といっても過言ではない。すなわち、「教える」という行為は単独では成り立たない。学習する側の「求める姿勢」「意気込み」こそが不可欠であり、それが教育の必要最小限の成立条件といえる。もし、教師にできることがあるとしたら、実に細(ささ)やかな範囲ではあるが、学生にその「やる気」を出させることだけだ。「その気にさせる」という騙し騙しの行為しかない。できることは、僅かにそれだけなのだ。ほとんど、舞台で演じるマジシャンと同じである。観るものが「不思議だ」を感じる気持ちが無ければ、実に滑稽で時代遅れの猿芝居でしかない。
その意味でも、教師からではなく学生からのアプローチへ、ベクトルを切り替えることは重要だ。学生は、自分たちでお金を支払って(親が支払っている場合がほとんどではあるが)授業を受けているのである。彼らはユーザであり、お客である。支払ったお金に見合った価値を得なければならないはずだ。「今日は休みます」と言ってユーザが大喜びするような商売は他にない。これは異常なことだ。質問をすることは、ユーザの当然の権利であり、質問から教育というサービスが始まるといっても良い。
さらに、問うことで学問への姿勢が評価できる。問う学生は、口を開けている雛鳥のようなもので、そこに餌を与えるのが教師の役目だと思う。口を開けていないものには、与えることができない。無理に与えることは、むしろ逆効果でさえある。教師から学生へ、親から子供へ、一般に、受け手が口を開けて求めている以上に、情報が流れ、物が与えられていないか。それが教育だと勘違いしている人も多い。少なくとも学問の教育は躾(しつけ)ではない。与える側は、受け手が欲しているかどうかを見極めることが大切だ。学生の質問は、受け手の姿勢を観る最も単純なサインとなるだろう。
◆同14p-
真面目な話はこれくらいにして
さて、ここまで、ずいぶん偉そうなことを書いてきたが、年がら年中こういったことを考えているわけではない(当たり前だ、それでは生活できない)。ときどき、ふと思いつく道理、あるいは言い訳に近いものである。人は、自分の成した事柄について、あるいは自分の現状について、バックアップが欲しいときがある。つまり正当化したい。それで、いろいろな理念や主義が言葉によって組み立てられることになる。それだけの話だ。しかし、多少は大切なことでもある。ときどき部屋を整理して仕事にやる気を出すのと同じ行為だ。部屋の飾り付けばかりに没頭して、仕事をしなくなってしまう人もいるかもしれないが、それだって、周囲に実害がなければ特に悪いことではない。道理に溺れるなんて人間冥利に尽きる。
それよりも、ここまで書いてきた「教育論」っぽい主義主張が、本書の中身とは、ほとんど一致していない事実が多少気になる。その問題を今、発見して悩んでいる。どなたかに解決してもらいたいものだ。
(中略)
さて、質問を受けて、それに答えるには、ある程度のテクニックが必要である。知らないことを質問されたら困る、と心配する教師もいるだろう。しかし、知らないことは全然恥ずかしいことではない。百科事典が世界で一番偉いと思っている人はいない(いてもごく少ないだろう)わけで、「知らない」とは、倉庫の中にまだ余裕がある、という意味であって、むしろ喜ばしい状況ではないか。だから、それを恐れてはいけない。自分が何を知らないかを認識していさえすれば良い。
質問に対する答え方の基本的な心得を以下に挙げる。たった今、独断と偏見で(という常套句を思いついて)考えながら書く事項であって、これらを紙に書いて日頃から研究室の壁に貼っているわけではない。だから、軽い気持ちで読んでほしい。
(1)情報を問う質問には、情報が存在する範囲で答え、その情報を得る方法を教えれば良い。
(2)意見を問う質問に関しては、意見を誇張してずばり答えるか、あるいは、その意見を問う理由、意見を一つに絞らなければならない理由、を問い返す。
(3)人生相談、あるいは哲学的な質問に関しては、まず定義を問い返す。
(4)個人的な質問に関しては、ある面は誇張して答え、ある面はかわす。
(5)自分で解決しなければ意味がないことを気づかせる。
ようは(5)が最も重要だ。「そんなことは自分で調べろ」「自分で考えろ」という内容をそれとなく示唆する。
(中略)
一例を挙げよう。
「異性の間で友情は存在するでしょうか?」
「友情を定義して下さい」
これが(3)の応用例である。しかし、しつこい学生はさらにこう問い返してくるかもしれない。
「では、先生は友情をどう定義していますか?」
「定義などしていない。幸いにも、他人に『異性の間で友情が存在するのか』などという馬鹿な疑問を投げかけるつもりはないので、それを定義する必要にまだ迫られない」
これが(2)の応用例である。つまり、それを問わねばならない理由を問い返す。しかし、そういったこちらの意図も理解されず、さらに問いかけられることが多い。
「では、先生は友情をどのように捉えていますか?」
「別にどのようにも捉えていない。多くの他人が『友情』と表現するシステムを想像し、その平均に近い認識を心がける程度で、それは他人とのコミュニケーションを目的とした認識の基本です。どうして、どのように捉えているのかを考える必要がありますか? たとえば、君は段ボール箱をどのように捉えているの?」
このような禅問答に近いやり取り(というよりも構造的には小学生の口喧嘩に類似しているが)に陥ることになるが、これはこれで、たまにならば楽しいと思う。いずれにしても、ユーモアを失ってはいけない。もしかして、それが一番大切な心得かもしれない。
◆同16p-
私は何ものか(筆者自身のこと)
筆者は大学院を卒業し、すぐに国立M大学の助手に採用された。以来、ずっと大学人として生きてきた。教官になりたかったわけではない。研究が続けられる立場が何ものにも代え難かっただけのことである。
(中略)
実は個人的には、教育などといったものをまったく信じていない。子供は二人いる(そろそろ大学受験の年齢である)が、父親として彼らの学業成績を気にしたことはほとんどない。「勉強しろ」と叱りつけたこともないし、なにしろ、幼稚園、小学校、中学校、高校と、一度だって子どもたちの学校へ足を運んだことがないのだ。つまり、教育には無関心な父親である。
だが、心がけていることがある。子供が勉強している以上に、自分は仕事をしようと思う。子供が遊んでいる以上に楽しく遊んで、「早く大人になって自由に遊びたいな」と彼らに思わせよう、と考えている。一所懸命生きている姿を見せることが、大人が子供たちにできる唯一の教育(この言葉には抵抗があるが)だと今は信じているからだ。
「近頃の大学生は……」という言葉はずっと昔から囁かれていた。最近の子供たちはおとなしく穏やかで、とても素直で良い子だと思う。昔はもっと荒んでいたし、世知辛い世の中だったではないか。「近頃の若者ときたら……」という人には、いったい昔はどれくらいりっぱな若者がいたのかとききたい。僅かな例外を捉えて報じられることが全体ではないし、ものごとを客観的に見る目を子供には持ってほしい。しかし、それも、押しつけてはいけないと思う。その方が得だ、ということを大人が示せば良いのである。
◆同20p-
以上、すべてまえがきからの引用でした。
引用の主従関係が保たれてるかどうかが疑問な量になってしまった;
デェタは、氏が言われるこの教育の考え方が好きです。
教えるという行為は単体では成り立たない、教え方の影響など微細な効果しか及ぼさないというのは
まさにその通りで、教わる側の「学びたいという姿勢」をいかに引き出すか、というのが
教える側に求められる理念として非常に重要なファクタだと思います。難しいですけどね。
「学生がユーザであり客だというのであれば、もっと教える側から進んで発信を行うべきだ」という
意見ももしかしたらあるかもしれません。
それもやろうと思えばできるでしょう。むしろそちらの方が教える側としては簡単でもあります。
しかし、それが教わる側の得になるかといえば決してそうではありません。
捕った魚を与えるのではなく、どのようにすれば魚が捕れるようになるのかが教育の本道であり、
そして、魚を捕れるようになることが自分の人生にとってどういう意義を持つのか、を考えさせる事こそが
きっと教育の根本なのだと思います。
というわけで、以上紹介でした。
できれば高校生より下の人に読んでほしい本ですね。
もちろんそれ以上の人でも得るものがあるかと思います。
上の文を読んで「森博嗣」という思考に興味を持たれた方がいらっしゃったら、
一度手にとってみられてはいかがでしょうか。
『大学の話をしましょうか(中公新書)』や、その他の本も面白いです。