▼
先日いわゆる「マナー」と「マナー違反」について話をする機会がありました。
このマナーという言葉、昨今では様々な場面で使われることの多い語ですが、
ビジネスマナーやテーブルマナー、公衆マナーなどという語が広く浸透したのが理由でしょうか。
その流れからか「社会人の一般常識」「円滑な人間関係を推進するための作法」、あるいは
「不用意に摩擦を起こさないためのマニュアル」の意味で使われることが多いですね。
それに対して云々するつもりは特にないんですが、時として形式としてのマナーを重視するあまり、
視野狭窄に陥っていると思われるシーンが散見されます。
「マナー違反だ!」ということを理由に憤慨したりするのもその一例で、
個人的にはそれはマナーの根本精神からズレているのではないかと思ったりしてます。
で、そういうことを話相手に伝えようとしたのですが、
どうにも自分の言いたいことが上手く伝えられなかった気がしてモヤモヤするので
改めて整理がてら記事を起こしてみたいと思います。
ぶっちゃけWikipediaのマナーのページを読んでもらう方が早いかもですがw
マナーの多くの様式は、四角四面に解釈して適用するマニュアルではなく、
人間が気持ちよく生活していくための知恵である。
◆Wikipedia|マナー
結論から言ってしまえばこの一文に尽きるんですけどね。
せっかくなのでこれをもう少し広げる感じでつらつらと書いていきたいと思います。
あくまで個人的な意見ですが。
さて、一口に「マナー」と言っても、その実態はなにかと問われると一概には説明しづらいものです。
学生時代、きちんとした社会人になるためにはビジネスマナーを云々とうるさく言われて
辟易した覚えのある方も多いのではないでしょうか。
お辞儀は45度でとか、立つときは左手で右手を覆うようにするとか、ノックは2回とか。
エトセトラ、エトセトラ。
ガチガチに形式化された一見意味不明なマナーの群れを前に、
「なぜそんなルールめいたものに従わなければならないのか」と疑問を覚えた方や、
あるいは意味がよくわからないマナーを無視したら「それはマナー違反だ」と指摘されて
「これをやらないことがどう相手のマナーを損ねるのかがわからない」と釈然としない気持ちになったり、
もしくは「誰が決めたか知らないけど自分がそれに従う理由がない」と反発を覚えた人なんかも
いるのではないでしょうか。
ちなみにデェタはぜんぶあてはまりますw
一般常識でいう、いわゆる形式としての「マナー」を身につけることは、
それ自体は悪いことではないと思います。
ですが、その本来の意味を考えずに、ただ「ルールだから」「常識だから」と
受け入れて済ませてしまうのはひどく危険な気がしてなりません。
形式化したマナーに照らし合わせて「それはマナー違反だ」とか
「ちゃんとしたマナーを身につけなさい」かと誰かを叱責する人を見ると
「その行為やら所作やらは、なにを根拠に”正しいマナー”と言えるの?」と
ふいに尋いてみたくなります。
実際に状況を仮定してみましょうか。
「なんでマナーを守らなくちゃいけないの?」
小さな子供があなたに尋ねます。
なんと答えるべきでしょうか?
「それがマナーだからだよ」
「社会の一般常識、社会のルールだからだよ」
「みんなそうしてるから」
「本に書いてあるから」
というのでは残念ながらなんの答えにもなりません。
「飛行機は何で飛べるの?」という疑問に対して「飛行機だからだよ」と答えているのと同じです。
この回答では絶対に子供は納得しないでしょう。
仮に納得しているように見えるのであれば、それは子供のほうがあなたを
回答者として不足していると見限っていると思ってまず間違いありません。
「正しいから正しい」というような中身のないトートロジーは単なる思考停止です。
(「飛ぶための機構を備えた構造体を飛行機と呼ぶ」という意味では正解かもですが…)
「人間関係を円滑に進めるためにだよ」
「相手を不快にさせないためだよ」
これはまださっきより的を射ている気もしますが、ではさらに
「マナーがそうなっていると(そういう形になっていると)なぜ人間関係が円滑に進むの?」と
尋ねられたらどう答えるでしょうか。
立つときに左手を前にすることにどんな意味があるでしょうか?
この答えかたでもおそらく子供は不満がるでしょう。
先の「飛行機は何で飛べるの?」の例でいえば
「翼があるからだよ」という答えかたに近いかもしれません。
「ではなぜ翼があると飛行機は飛べるのか?」という新たな疑問が湧き出るだけです。
間違いではないでしょうが、迂遠さは否めません。
で、結論ですが、残念ながら形式がかった「これ!」という答えはありません。
なぜならマナーとは「他人を思い遣るの精神の発露」であり、そしておそらくはそれがすべてだからです。
少なくとも個人的にはそう考えます。
他の細々とした内容はすべて流動的、二次的な要因です。
マナーの形は、時代によっても場所によっても相手によっても変わります。
形式が問題なのではなく、相手に対する慈しみの気持ちこそがマナーの根本です。
その気持ちなくしては、いわゆる「形だけのマナー」をどれだけ完璧にこなしてみたところで
ちぐはぐになるばかりです。
10人いれば10通りの価値観があります。
60億人いれば60億通りの価値観があります。
自分ではマナーに沿っていると思う行動が、誰か、あるいは見知らぬ異文化では
失礼な振る舞いだと思われることもあります。
「なんのためのマナーなのか」を理解しないままに形式主義に陥ると、
この差異に直面したときに困窮することになるかもしれません。
このへんは茶道、いわゆる「お茶の心」にも通ずる概念だと思います
(経験がないので聞きかじり千万ですが)。
茶道の真髄は「いかに相手に心を砕くか」だといいます。
茶室、茶器、茶、作法その他は二次的なもので、
相手にいかに楽しんでもらうか、相手をいかにもてなすかという気持ちこそが大事であり、
そのあとに作法なりがあるわけです。
作法を押し付けて相手に窮屈な思いをさせたり、もてなしが疎かになるようでは意味がありません。
無作法をことさらに非難するために作法があるのなら、そんな作法は存在する必要がありません。
相手にマナーを強要するということは、相手に「自分を思い遣れ」と言っているのと同義です。
これは当然ながらマナーの根本精神と真逆に位置するものです。
このように書けばそれがどれだけ傲慢な態度であるかが一目瞭然ですが、
マナーが何のためにあるのかを忘れ、形骸化したマナーに沿う事こそが正しいかのように振舞うのは、
その根本精神をないがしろにする行為であると言えます。
マナーのためにマナーがあるのではありません。
見知らぬ他人同士がお互いに気持ちよく過ごすためにマナーがあることを忘れてはいけません。
そしてマナーは取引ではありません。
奉仕、あるいはプライドに類するものです。
(この「プライド」という語も「見栄」の意味と混同されがちなのでいまいち伝わるか不明ですが)
自分がそれを行ったからといって相手に同じ事を期待するというものではありませんし、
相手がやらなかったからという理由で自分もやらないという類のものでもありません。
自分が行ったか、あるいは行わなかったか。それがすべてです。
相手の奉仕がないことに対して「マナー違反だ」と憤るのはナンセンスです。
余談ですが、マナーは「守る」という動詞で遣われるのが一般的ですけど、
自戒の意味で「守る」と言う事はあっても、他人に対して「守れ」と言うのは
筋違いな気がします。教育の意味ではまた別かもしれませんが…。
あえて他人に向けて遣うとすれば「マナーを尽くす」の方が適当ですかね。
マナーを守る(尽くす)というのは完全に自発的な行為です。
繰り返しになりますが、他人に期待したり強要したりする類のものではありません。
そして、マナーに限らずありとあらゆるすべての作法は、
「人間の機能」を冷静に俯瞰した結果として成立してるものが大半です。
誰かに対面して立つ時に左手で右手を押さえるのは、刀を腰にぶら下げていた時代、
刀を扱う腕(右手)を逆の手で固定することによって相手に害を及ぼす意思がないことを示すのが
発祥だといいます(これまた聞きかじりですが)。
同様にお辞儀も、人間の弱点の一つである頭頂を相手に晒すことにより、相手に対して
自分が害意を持っていないことを表明する行為です。
もちろん今現在、刀を腰にぶら下げて歩くような人間はいません。
その意味では左手を前に出す行為に昔ほどの意味はありません。
ですがあえて今それを自発的に行うことによって、自分本位になりがちな自意識を戒め、
「相手のためになにかできることはないか」という思考を展開するきっかけとしてみるのも
意識改革の手段として良いかもしれません。
長々と書いてきましたが、正直ご理解いただけてるかわかりませんw
なるべく伝わりやすいように書いてるつもりですが、デェタの筆力の問題もあって
伝わりづらかったらご容赦を。。
軽くまとめると、
・マナーは決められた形式やルールではなく、相手への思い遣りから発露するもの。
・マナーのあるなしは自分の問題であって、他人にどうこういうものではない。
てな感じでしょうか。
とはいえ正直、この意味でのマナーを実践することはとても難しいです。
決まった形式がない以上、どうすれば相手が喜ぶかは自分で考えるしかありません。
相手が喜ぶと思ってやった行為が相手に不快を及ぼすこともままあります。
また、頭で理解していても、行動に表せないことがあります。
むしろ表せないことの方が多いかもしれません。
ホームランを打つための方法論を知っていても実際にホームランが打てるわけではないのと同じです。
もしかしたら難度的にも同じくらいかもしれません。
偉そうに書き綴ってきたデェタにしても、マナーに悖る行為はいくらでもやらかしてますし、
これからもやらかすでしょう。
しかし、だからといってそれが形骸化したマナーを肯定する理由にはなりません。
「マナーだからしかたなく」という気持ちで為された作法が相手の心へ響くことはまずありません。
ただ表面的な儀礼だけが上滑りして虚しいだけです。
そんな気持ちで実践される「マナー」に果たしてどれほどの意味があるでしょうか?
少なくとも、デェタにはその意義が見いだせません。
ですが、誤解のないように補足すると、形式化されたマナーがダメだというわけではありません。
これまでに書いた内容も、形式化されたマナーそのものに苦言を呈するものではありません。
そこからもっと踏み出せる余地があるのでは、ということです。
「俺は思い遣りがあるから形式化されたマナーなんてまっぴらだぜ!(キリッ」ってことにはなりません。
(当たり前ですが)
形式化されたマナーはとくに初対面の相手と接する時などに相手に失礼を与えたくないという
気持ちの表れとして機能しますし(相手がそれを理解している場合に限りますが)、
一般化した形式としてのマナーの多くは、さまざまな紆余曲折を経て成立した歴史と知恵の結晶です。
いざ実際に思い遣りからマナーを実践しようとしても、具体的に何をすればよいかというのは
なかなか難しく、また、わかってても体が動かないものです。
その意味で、形式化されたマナー/作法を身につけるていることは少なくとも適切な所作を
考えるきっかけにはなります。一概にないがしろにして良いものではありません。
同じような所作でも、それが形式から行われているのか、はたまた
相手を思い遣る結果として行われているのかでは確実に印象が違ってくるものです。
同じような動作をやるのであれば、より相手に良い印象を与える方が単純に自分にとっても得です。
損得をいうと即物的なにおいがしないでもないですが、それで相手も自分も
よりハッピーになれるのであれば、別に損得勘定でも構わないのではー、と思います。
むやみに長くなったのでそろそろ締めます。
人は感情の生き物ですから、無礼と感じる態度を相手に取られれば腹が立つのも理解はできます。
社会通念として一般常識化されている作法であればなおさらです。
しかし、相手が無礼な態度を取ったからといってこちらが無礼な態度で応戦する必要はありません。
「マナーを守るか否かは自分自身のみの問題」と先に述べたのと同様、
相手の態度が無礼であることは、相手自身の問題だからです。
彼(or彼女)は、彼自身の態度に見合った人生を歩むでしょう。
相手の無礼な態度に対してこちらも無礼な態度で対応するだとか、もしくは相手の無礼な態度に
憤りを感じるということは、自ら進んで自分の品位を下げる行為です。
無礼に対しては、よりいっそうの思い遣りを込めて接する。
本当の意味での「マナーを守る」とはそういうことではないかと思います。
最後にもひとつ余談を。
おおよそすべての作法は人間の感情なり機能なりに起因します。
形骸化した伝統なり作法なりを後生大事にして、意味もわからずにそれを行い続けるのは
あまりに虚しいだけですし、もっと端的に言ってしまえば時間の無駄です。
言葉は生き物ゆえ、時代の変化に合わせてどんどん意味が変わっていくのは
仕方がないことではありますが、できるだけ元の意味を大事にしていきたいものです。
おわり。
ついでにおまけ。
飛行機が飛ぶのは、翼の上側面と下側面のカーブの違いによって
その脇を流れる空気の流速が変わり、翼の上方と下方に気圧差ができて、
結果、圧力の高い下側から圧力の低い上側に向かって翼を引き上げる力(揚力)が働くからです。
超受け売りだけどな!(゚∀゚)(責任転嫁)